ma vie en rose -ぼくのバラ色の人生-

ぼくのバラ色の人生 [DVD]

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性同一性障害」(この映画が作られた1997年当時にその呼び名があったかは不明だが)と思われる主人公が好奇の目に晒され、家族を大いに動揺させながらも「女の子になりたい」という切実な思いを童心の憧れの情景と共に描いた作品。この前夜中にゼミの資料を作っていたらTVでやっていて、結局最後まで見入ってしまった。
まず、映像がすごく綺麗。これはよかった。私は映画を見る時に映像、音楽の美しさを重視してみているのでこの映画の映像美には感動した。特に、主人公が思い浮かべる「御伽の世界」が何とも素敵。
印象に残ったのは、自分が「女の子」であることを説明する時に姉から聞いた生物学の授業の話から「神様は自分を女の子にしようと思ったんだけど、煙突からDNAを投げ入れる時にXが落ちてしまったから、自分は手違いで男の子の体になっているんだ」というセリフ。その子のことを理解できない、しようとしない周りの人達の中で、子供心の純粋さ、愛おしいほどの憧れ、そして何より自分は自分が「女」であることを知っている、というこの言葉を聞いて、何だか優しい気持ちになった。そして、性同一性「障害」という言葉はマジョリティからの一方的な名付けでしかない事、人が自分を「男」「女」と呼ぶ時、その根拠が何とも希薄であることを改めて考えさせられた。
では何故、人は自分を「男」「女」であると言えるのか。性染色体のXX、XYによって男女が決定されるから?それは外性器の形状を決定するものでしかない。違う。ヘテロセクシャルだから?ヘテロセクシャルは受精によって子孫を残すことが可能である最も簡単な道であるから、でしかない。性愛の対象の決定は自分の性とは別問題だ。違う。戸籍に「男」「女」と記載されているから?それは外性器の形状で判断されたものでしかない。愚問。今年、戸籍法が改正されて(性同一性障害特例法)戸籍上の性別の取り扱いが改められた。あれはどちらかと言えばいい法律だ。色々な限界を持っていてまだまだ考えなければならないが。私は、自分が「男」「女」であると「知っている」から、人は「男」「女」であるのだ、と考えている。では、何故「知っている」のだろう。ただ、「知っている」という観点から一つだけ言える事は、ゲイや性同一性障害などが「おかしい」「病気だ」と言われるのは、性というものが社会によって構築されたものでしかないことを明らかに示しているのではないか、ということ。
んー分からん。何かすごく一般的なジェンダー議論になってしまった。もっと大事なものがあるはずなのになぁ。見えない。実際、私は誰なんだろう、と考えた論文締め切り前日の深夜。

本エントリーには、さらに議論の必要な事や、私と違った意見を持つ人にとっては一部不快な表現もあるかと思いますが、これはこの重要な問題に関して不勉強な私が思いの丈を非学術的に書き連ねた、映画鑑賞後の一感想であり、それ以上の意図を持ったものではないことを明記しておきます。